『ダルグレン / DHALGREN』(1975) サミュエル・R・ディレイニー著(未訳)

Dhalgren (Vintage)

    • ロジャー・ゼラズニイとも関係の深かった、黒人作家ディレイニーの問題作(ペーパーバックのページ数は800ページ……まるで電話帳?)。マルチプレックス──多義性とでも言うのか、言語、それらに形作られる物語さえをも多角的解釈が可能な構造で描き出そうとするSF界の天才のひとりである。現在は大学教授であり、SF創作とは距離を置いているようであるが。
    • 舞台は近未来のアメリカの都市ベローナ。空が雲で覆われる奇妙な兆候、何かがそこで起こっていて、荒廃した都市に狂人や犯罪者が溢れ、住民は減少していた。独りの青年が流れ着き物語が始まる……
    • なんだか分かったような、分からないようなあらすじです。説明しようがありません。きちんとしたストーリーがあるのかも分かりませんが、とりあえず、冒頭部をへなちょこ訳で披露。

老秋の傷ついた都市へ。
 そして彼は世界へ喚く、一つの御名を与えよと。
 宵闇は風で答える。
 人々の知ることは何でも知っている。凋落してゆく宇宙飛行士、昼食前に時計をちらりと見る銀行員。女優は輪状の光源鏡に覆われ、貨物エレベーター運転士は指を油まみれにして鉄のハンドルを回している。学生暴動。六ヶ月で物価が異様に上がり、雑貨屋の陰気な女たちはこの週も頭を悩ませている。まるまる一分、冷え切った口に入れっぱなしにした、コーヒーがどんな味か。
 まるまる一分、彼はうずくまっていた。荒れ果てた岩棚、石っころを(素足の)左足で掴み、自身の呼吸音を聞きながら。
 葉のアラス織りの向こうで、反射した月光がひらひらと舞ってい る。
 彼は両掌をデニムに擦りつける。彼のいる場所は静かだった。どこかで、風が咽び泣いていた。
 葉々が煌めく。
 風が去り、何かがガサリと藪の下生えで動いた。背後の岩へ彼は手をやる。
 女が立っていた。二十四フィートほど下方はるか、零れ落ちるツタカエデの月影だけをまとって。動いた。影が彼女の上で動く。
 彼のシャツ(真ん中の二つのボタンはない)は微風で膨らみ、恐怖がチクチクとその半身を刺した。筋肉が裏で、一本の帯となり顎を下げさせる。恐れが額に刻み付けられぬように、黒髪が触れぬようにした。
 女が何かを囁く。すべては呼気となって、言葉は風にさらわれ、意味をなさぬ塵あくた。
「ああああああ……」と女。
 彼は空気を絞り出した。それはほとんど咳に近い。「……ふーふーふーふーふーふー……」と再び女。そして、そこに割り込む多くの笑い声、月下に輝く歯。「……ふーふーふーふーふーふー……」その中には多くの音が含まれていた。たぶん彼の名前よりもずっと。だが、風、風ばかり……
 女は進んだ。
 動きは影を再配置し、片胸を露わにした。光の菱形紋が片目に浮かんでいる。葉の前で発光している脹ら脛と足首。
 その下肢に沿って掻き傷があった。
 彼の髪が額から後ろへと引っ張られた。前に振り投げられる女の髪を彼は見つめた。髪を旗めかせ、女は動く。葉を踏み越え、爪の先っぽで休止を刻みがら、つま先で石をばらまく。暗き影を打ち払うように。

    • 基本的に、若き頃のディレイニーの伝記的性格を持った描写をこね合わした多義性を有している。60年代というヒッピームーブメント、SEX&ドラッグ文化、アポロ計画オイルショックなどなど書かれた時代の出来事も取り込み、表と裏、真実と虚構を綯い交ぜにしてゆく。絢爛たるリリカルな文章の裏には赤裸々な真実が隠れているという訳だ。まるでハリウッドスターの裏生活のように。
    • 彼はバイセクシャルであり、数学や音楽も愛した。原語にはここでは表記できないようなセクシャルな隠語も多い。ゲイ・スラングとか。