「セイレーンとセロトニンのための協奏曲(仮題)」ロジャー・ゼラズニイ(未訳)

    • さて、前日なくしたっていうのはこの原書読み中の<ワイルド・カード>シリーズの4巻と5巻の一部なんなけれども、最初に読んだのは我が心の友、故ロジャー・ゼラズニイの担当するスリーパーことクロイド・クレンスンという男が活躍する5巻収録のストーリー"Concerto for Siren and Serotonin"の1章である。この1章はもう翻訳は済んでいて、消失は免れたけれども、題名のSirenは本来なら、サイレンとか訳すべきであるが、ギリシア語風のセイレーンのが美しいので敢えてぼくはそう訳した。
    • で、<ワイルド・カード>ってシリーズは3巻まで既訳なんだけれども、4巻以降は未訳。多数の作家が世界設定を共有し、創作をするシェアワールドってジャンルの物語である。ジョージ・R・R・マーティンが先頭になって立ち上げたもので、他に参加作家はゼラズニイに、ルイス・シャイナーや、『ハードワイアード』(ハヤカワ文庫SF)など、ひと頃は翻訳出版も見られたウォルター・ジョン・ウィリアムズ、他にトレックの設定担当をしたメリンダ・M・スノッドグラスなどが有名であるが、十数名の作家が携わっている(orいた)。1946年9月15日、ワイルド・カード・ウイルスという異星人のもたらした細菌兵器によって地球は汚染され、感染した多数が死亡、奇形種に変態を遂げたものたちは<ジョーカー>とさげすまれ、ごく少数のみが超能力を有した<エース>となった。そんな別の激変した世界を、虚実入り乱れ、アメコミよろしく描いたものである。そのさわりを少々ご紹介するか……哀しいかなルビとかは省略。

変な時間に来店し、閑散としたビトーズイタリアンの暗がりに覆われたボックス席に座り、リングイネの小山と藁づとにくるまれたワインボトルの水位を目減りさせゆく──スプレーかトニックでガチガチの黒い髪──その場所だけの常連客がいた。賭け事の対象として従業員たちの注目を引いていて、これで七度目の来店だった。そのときのことだ。棍棒のような手をした巨躯の人物がふらりと入ってきて近くに立ち、血走った眼で見つめていた。
 男がその食事客を凝視し続けていると、やがて客がミラーレンズ越しにそちらを向く。
「おれが探してるはおまえさんか?」新来者が尋ねる。
「たぶんそう」食事客は答え、フォークをおろす。「もしそれが金絡みの、特殊技能ならばね」
 大男はにやり。すると、右手を上げ、打ちおろした。テーブルの端を叩き、コーナーがもげ、テーブルクロスが切り裂かれ、それごと前に引っ張られた。リングイネが黒髪の男の膝にぶちまけられた。同時に、ぐいと引っ張られた男の眼鏡がずり落ち、その一対の光り輝く、切り子面のある両眼が露わになった。
「巨根野郎!」男は告げ、両手を前方へ疾らす。相手の棍棒の如き付属器官に向けて。
「こん畜生!」巨人は怒鳴り、手を引っ込めた。「てめえ、火傷させる気か!」
「感電させる気」男が修正する。「唐揚げにならなかっただけマシだ! 何のつもりだ? ぼくのテーブルをなぜバラす?」
「エースを雇ってんじゃねぇのかよ? おれさまの流儀を見せたかったのさ」
「エースを雇っちゃない。ぼくの方こそ、あんたがそうかと思ったよ、やってきたときにね」
「ふざけやがって! この虫眼野郎!」
 そう言われ、急いで眼鏡を調整し、
「実に苦痛なんだよ」と彼。「二百十六もの視野で間抜け野郎を見るのは」
「糞の穴ぼこをこさえてやろうか!」と巨人は言い、再び手を掲げた。
「覚悟はいいんだね」そう言うと、掌のあいだに電気嵐が突然巻き起こっていた。巨体が一歩下がる。その嵐が去り、男は両手をおろす。「ぼくの膝のリングイネが可哀想だ」と言って、「これはおかしいなぁ。座ってくれ。一緒に待った方がいい」
「おかしいだと?」
「ぼくが身綺麗になるあいだ、それを考えてみてよ」と応じ、「名前はクロイドだ」男は言った。
「クロイド・クレンスン?」
「そうだよ。で、あんたは棍棒さん(ブラジョン)だね?」
「そうだとも。『おかしい』ってのは何が?」
「人違いのようだね」クロイドは答えた。「二人の男が互いに他の誰かと思っていた、ってことじゃん?」
 ブラジョンが眉間に皺を寄せること数秒、その唇がためらいがちに笑みを作る。それから、笑った。咳のように吠え声で四回。「まったく、ちゃんちゃらおかしいぜ!」と言って、また吠える。
 ブラジョンがボックス席に滑り込む。まだくすくす笑うそれを後目に、クロイドがするりと出た。クロイドは男子トイレの方へ向かう。掃除にきたウェイターに、ブラジョンはビールのピッチャーを注文した。しばらくして、黒ずくめの男が厨房から食堂エリアに現れ、立っていた。親指をベルトの後ろに引っかけ、少し不機嫌そうな表情の中で、爪楊枝がゆらゆら動いている。と、男が進み寄ってきた。
 そのボックス席の側に近づいてきて、「あんた、ちょっと見た顔だな」黒服が言う。
「おれはブラジョン」と応じ、ブラジョンは手を掲げた。
「クリス・マッツチェリ。そう、聞いたことがあるよ。そのおててで、近づくものは何でもぶん殴るって聞いてる」
 ブラジョンは歯を見せ、ニタニタ笑い、「糞ったれなもんならな」
 マッツチェリは爪楊枝を咥えたまま微笑み、頷く。クロイドのいた席に滑り込み、
「おれが誰か知ってるか?」と尋ねた。
「もちでさ」ブラジョンは頷き、「あんたはお偉いさんだ」
「その通りだ。少々面倒事に見舞われてると聞いてるとは思うが、ちょっと特殊な兵隊たちが必要でね」
「あんたは、イカレポンチ頭を叩き割る必要があり、おれはそれが大得意だ」ブラジョンが男に告げる。
「ビシッと頼む」マッツチェリは言い、上着の中に手を伸ばす。封筒を取り出し、卓上に投げた。「依頼料だ」
 ブラジョンはそれを拾い上げ、破り開けた。唇を動かしながら、ゆっくりと札を数える。数え終え言った。「どえらい報酬額だ、まったく申し分ねぇ。で、何を?」
「そこに住所もある。今夜八時そこへ行き、命令を受けろ。OK?」
 ブラジョンは封筒を仕舞い、立ち上がった。
「仰せの通りに」と請け負う。ビールのピッチャーに手を伸ばすと持ち上げる。高々と呷り、それを飲み干してゲップをした。
「もう一人は誰だ──便所に行った奴?」
「糞ったれよ、おれたちのお仲間」ブラジョンは答えた。「名はクロイド・クレンスン。やり合うにはマズい男だが、すげえユーモアのセンスを持ってた」
 マッツチェリはこくり頷き、「じゃあさよなら」
 ブラジョンは再びゲップ。背中越しに会釈し、棍棒手を振りながら離れてゆく。